昭和49年07月29日 朝の御理解



 御理解 第3節
 「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みなかみの地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼致し、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。

 願う氏子におかげを授けと、先ず神様を信ずるもなからなければ信じないもの、信心と云う事が分かってはいなくても、願う氏子があれば取り次ぎ助けてやると、今の丁度合楽の様な状態ですね。最近は毎日もうそれこそ、まあこれ以上の難儀はあるまいと言った様な、願い事が必ず、一件、二件あるんです。昨日も丁度竹葉会が終わって、お茶を頂いておる所へ、直方からお参りになっておられると聞きましたから、そこへ通して貰ったら、あちらの御信者さんが導いて、四人程でお参りでした。
 中学校のお父さんは先生、息子さんは大学に行っていますけれども、目が失明寸前もう今の医学ではどうにもでけないとさじを投げられた。だからこの目ん玉をえぐり出してね、外の物の目ん玉を持って来るより外に無いち、いう様な状態の息子さんを連れて来た。大学生ですでそのお取り次を終わらせて頂いて、まだここにこの人達がおる時にけたたましゅう電話が鳴りますから電話を取りますと、あの丁度あの秋永先生。
 さっきまでここにおられたがと、思う様なけどもやっぱ時間としては二時間ぐらい経ってましたでしょう。それこそ久振りにお得意さんの、もう何ヶ月ぶりに行った、そのお家でです、娘さんが危篤状態でもうてんわんやしよる所で。椛目時代にもう十五年も前だったでしょうかたまに来よりました。大きな旅館のおかみさんで、その方が参って来て、その娘さんが危篤状態、そいでまあすぐお取次ぎさして頂いて。
 けどもまあ考えて見ますと、秋永先生が二時間前、ここにおってから始めてまあ、そのお得意さんに、何ヶ月前ぶりかにちょっと寄ってみろか、と寄ってみた所が、そこでは危篤状態で、もうてんやわんやしよんなさる。早よあなた合楽に電話しなさらにゃと言うて、秋永先生が電話かけた、そいでお母さんに代わって、もうそれこそ長い間ご無礼しております、実はこうこうでいま、秋永さんに丁度来合わせて頂いてから( ? )から、もうそれこそもう、神様の言う事も忘れておるんですね。
 それから私はまた、ぐずぐずしてからここへ座っとりました。そしたらその方達が夫婦で福岡からですけれども、もうすぐに驚いてお参りになり又は、あのお願いのお参りなりに、夫婦で見えられました。もう医者はもう全然駄目と云う様なけれどもこりゃ、願う氏子におかげを授けとおっしゃるのだから、訳が分かろうと分かるまいが今まで、十五年間もご無礼しとろうがしとるまいが、矢張りそこにですね。
 その願いを神様は聞き届けて下さる。私は今日の御理解三節を、頂いて改めて思わせて頂いた事なんですけども、本当にもう人間が愈々助からなければならない時ですね、この人間がなんちゅうですかね、純粋になりますね素直になります。私は今朝方からお夢を頂いて、丁度二十五年後の地球破滅、総人類が全部あのお終いになると、言われる様な予言しておる人があると、云う様なお話を聞きましたがその時が来ておるのです。
 もうそれこそ大変な事ですお夢の中で、そこであの丁度まあなんですかね、ハイジャック、なんかのあれはこんな事だろうと思ったんですけどね、私が中心に乗っておる。まぁなんとも分からないですけど、なんか乗り物なんです。飛行機の様な感じもすりゃ、汽車の様な感じもする。けどまあ人間というものは、どこ行きよるか分からんという、沢山乗っているんです。
 そしてもう今にも地球がしまえる、総人類がもう破滅するんだという、そのもうそれこそそのおののきというかね、恐れというかもう大変な場合の時に、私は一段高いとこに立ってから一生懸命、丁度この御理解第三節の様なとこを、お話をしておる。どうしてこう言う様な事になったのか、と云う所から話をしておる。それが今日の神仏の宮寺みな神の地所と。日柄方角ばかり見て無礼致し、と云う様なこう言う事になるから、前々のめぐりで、こういう大きな難儀になって来たんだと云う事です。
 ここん所はもう私何時も思うんですけども、この御理解第三節というのは、ご理解ではあるけれども、是はあの教祖様の御栽伝の中から、のものだそうですね。又この御理解三節の大変大切なとこはその大切にする所がね、天地金乃神と申す事は、天地の間に氏子おっておかげを知らずという、天地金乃神と申す事はと云う所と、最後の氏子ありての神、神ありての氏子上下立つ様に致す、と云う所が一番大事( ? )ですね。
 今日真ん中の私が一番大事だと思う所、ここん所が解き明かしてあるのをまだ聞いた事も無いです。一番大事な所はここなんです。難儀の元のとこを説いちゃるです。自分の物でもないものを、自分の様に思うたりと云う事でしょう。又は日柄方位ばかり見てと云う事は全然見当違いだと云う事なんです。そういう意味でです例えばこの、自分の物でもないものを、自分の物の様に思うたり見当違いな見方とか、考え方それが神の気感にかなわぬ、それが神様のご無礼になりそれが溜り溜って。
 所謂初めて金光教で言う巡り、という言葉はここにだけしか出て来んですね。前々の巡りとなっておかげを頂く、例えばねあの人が悪い人だとか、あの人泥棒けがあるとか、根性が悪いとかとそう言う様な事がね、御無礼の元やら難儀の元になるのじゃない。天地に対する働き、その働きに対する見当違いの受け方頂き方、お礼を申し上げねばならない事に、例えば日柄方位ばかり見てと言って、天地の働きにけちを付ける様な生き方が、それが積もり積もって人間の難儀というものを、創っているんだと云う事なんです。
 神仏の宮寺氏子の家屋敷みな神の地所、これは例えば神の地所、人間の家屋敷これは神の地所とかと、云う様なことではなくって、一切全てが神様の御物だと云うこと。その神様の御物をいうならば、預かっておるような形ですから、それを大事にしなければいけないのに、自分のもののような思い方、考え違いをして来た。そして見当違いな事ばっかりをして来た。神様の働きにむしろ、こうけちを付ける様な生き方が、積もり積もって前前のめぐり合わせで難を受けおるとこういう。
 ですからここの見当違いの考え方をして来たことがです、人間がこう云う様な、言うなら地球破滅と言った様な、結果にならなければならない事になって来たんだ。言うならば人間が、自分で自分の首をくくる様な、生き方になって来たんだ。神を恐れない言うならば、自然を例えば征服するとか、目に見えるものは信ずるけれども。目に見えないものは信じないとか、そういう心の面というものを無視して、只唯物的な思想、そう言う様な物だけに、人間が考え違いをしておる事がです。
 こう云う事になっておるから、お互いが純粋な心でです。今迄の見当違い、思い違いに対する所の、事を天地にお詫びをする気になる、是からは自分で自分の首をくくる様な事ではない、いよいよ広がりに広がっていく考え方というものがです、おかげを受けて所謂、今ここで言われている所の合楽を現していくという生き方。分の心の中に自分の家庭に、合楽を現していくと云う事。
 自分だけが助かるのではない、自分が助かると云う事は、主人も助かる、親が助かる事は、子供も助かる、家内が拝むなら、主人も拝む、という拝み合いの生き方、それを私は合楽を現すとこう言う訳です。言うならば神様も喜んで下さり、そして私共も喜び合えれる、言うならば合楽の世界を心に抱き、自分の家庭に開いて行くと云う事が、神様の願いなのですから、そういうおかげを頂いていかなければならない。
 それには先ず自分の、言うなら思い違いとか考え違いというものの、生き方をして来たことをお詫びさしてもろうて、是からはです、例えば日柄方角などは見ませんと云うことは、見当違いの、云わば思い方考え方は致しません、という生き方にならして貰うと云うことになってくればです、皆が助かることが出来ると云うことを、私がお夢に中で一生懸命に説いておる。
 もうそれこそ今迄もう、もう是でしまえるか、もうそれこそなんと言うでしょうかね、阿修羅の様な状態の中に、もうとにかく助からんと云う事だけでね、もう皆んな水を打った様に、私の話を一生懸命聞いて、そしてなら( ? )そういう考え方を変えたらです、そしてそういう神様の願いを願いとしていく生き方を身に付ければです、助かられるんだという、一つの光が見え出して来た、それで今までもうそれこそ、阿修羅の様な状態のがです、助かられるぞというひとつの希望が湧いて来た。
 私は昨日ここで、あのその学校の先生と言う、それから息子さんは、大学生というそれをお導きして来とる、行本さんという方に、お話させて頂きながら、ここん所を本当に話しましたが、又それをあのもう実に純粋に聞かれるですね。そしてこちらに来がけに、戸板のあれを見て来ておるんです。昨日一昨日の、昼のご理解です。して先生あそこの戸板に書いてあるあの通りで御座いますなあて云う事。まあ一遍ここんところを読んでみましょうね。是は私ちょっと荒い口調でね。
 理屈ばっかり言う者に対して、その理屈を言わせんと言う様な感じの表現ですもんね。天が下に他人と言うことは無きものぞと言う御神訓に対して、一体人間と言う者は科学が作ったのか、医学ででけたのか、それとも神が作ったものか、よくよく考えて見るがよい。勿論科学者又は医者といえども、科学が作った医学ででけたとも思うまい。神が創ったに異論はあるまい。この論法からいうても親を大切に、親が神御一人と言う事になる。他人などあろう筈が無い。
 と云う事をですもうそれこそ、たまたま初めて見た事ですよ。けれども言われて見るとそうだと云う事を、感じてここへ来ているからお話がはいるです。もうだから私は、本当にもう理屈でもなからなければ要領でもない。助かるのは神様。そこで皆さんが、んならこの体を神様が創んなさったと言う事に異論がないと云う所から。私の話が分かる。例えば自転車を組み立てきんなさる、いわば自動車を作りきんなさる。
 職人さんが自動車の、言うならば修繕が出来なさる様に、自動車の修繕をしなさる様に、んならこの神様が、この体を作って下さった神様と云う事が分かれば、そこからこの神様に、修繕をして貰えば、でけると言う事が分かるでしょうが、というて熊谷さん方の私はお孫さんのお話をさせて頂いた。この人も今大学の一年生、そして病気に掛った。その病気が何と白血病である。今現在では、どうにも出来ない。しかもお家は大きなお医者さん。けども自分の手にも及ばんから、九大に入院をした。
 九大でももう駄目だと言われた。後五日間の命と云う事になった。東京辺までご親戚まで全部来て、丁度一週時間ばかり前に全部ここに見えられましたが、もう是が言わばお別れと言う所迄いった。そしていうならば後五日間の命と言われた。お婆ちゃまが見舞いに行かれた。酸素吸入をしておる、食事はもう全然いけない、もう五日間の命と言う、もうそれこそ命絶え絶えの状態で、それでお婆ちゃまが来た事がこう分かるらしく、目でこう合図をする。お婆ちゃまが今からお話をするが良いね。
 ちゅうたらこうやって合点をする。きつくなったら止めるから言うけれども、何かお話を一生懸命されると、もう、涙ぐんで頂く、そして、今度来る時はお婆ちゃまがね、お神様をお供して来る、あんたが拝まして貰うならばね、ここに奉祭させて貰う、こうやって休んでおる所に、むこうにお神様を小さい木の箱に収めて、お社て言う訳ではないけれども、もうお医者さんもなんも無い、もう後五日間しか無い命ですから、とにかくよかごとして下さい、と言う事なんです。
 ところがどうですか、あくる日は酸素吸入取れましたんです。五日間の命が十日間、十日間の命が十五日、十五日の命が二十日間、一ヶ月と生き延びのおかげを頂いて行く内に、食事がいける様になった。そして先日から、熊谷さんが行かれた時には、お婆ちゃま瓜の味、なすびの味、かぼちゃの味が解る様になった、と言うて味が分からなかった。その味が分かる様になったと云う事が、とても本人が有難い様です、最近はじっと、もう起きられる様になった。
 もうこれこそ今の九大でもとにかくたまがってしもうとる訳なんです。いま白血病の五日間しか、皆もう偉い先生方が、五日間しかもてないと断言しちゃった。いかにこの命というものを、天地の親神様がね、自由自在に、言うならば修繕なら、修繕をして下さることが出来ると云う事が、分かるじゃないか、それだけではない、段々もう増えるはずは無い血が増えて来ている。
 どう考えても神様の云うならば、もうそれこそ目を輝かせて、そのお父さんお話を聞き入っておられて、頂き終わった所に電話が掛かって来た。そして今がその危篤という。秋永先生がちょいと考えて見て御覧なさい、本当にまあ縁を頂いておると云う事がです、十五年も前に参って来た事があるという人だけれども、その秋永先生が何ヶ月ぶりに初めて行ったお得意さん、しかもその二時間前にはここに合楽におったんです。
 そして初めて飛び込んで行った所が、娘さんが危篤状態でてんやわんやしたと、もう神様が何とか助けずにはおかん、と手を差し伸べて御座るものを感ずるじゃないか。と言うてこの方たちの為に、その電話が掛かって来た様な感じなんです。本当にですねこの助かるとか助けるとかと言いますけども、神様のそういう不思議な縁につながってなら縁の糸を手繰って、初めて助かる事が出来るんです。
 それを縁を縁として生かしきらん所におかげにならんのです。明日の私の方の霊祭に豊美達が昨日から来ております。四時に着くと言いよったですけども、何か少し延着するというので、一時間二時間遅れるだろうと思ったけれども、しきりに私はその方のお届けを、電話でのやっぱ古川ていうんですよ、それからあの、古川の事を思うてから、豊美のお届けをさせて頂いた頃、然も立とうとしよった所へいま豊美さん達が着かれましたよ、とこう言う。でここへ座りましてからその事を話すんです。
 もうあんた達が例えば、一日早くこうやって今日おかげを頂いて来たと云う事でも、本当に一つ何かに催に催されて、おかげ頂いてここへ只今到着したんだと、古川ていやまだ私の豊美の所と、いまの福岡のいまその人だけしかないですがね、例えばお届け帳の上に、古川ていうのが、こう続けてね、お届けがされると云う事なんか、これはそういう一つの縁の糸というものにです。
 言うならば古川を助けずにおかない様に、なら岡山の古川だって、助けにゃおかん働きというものをそこに感じるじゃないか、というてまあ話した事でした。ですからそれを本当にそういう縁というものを生かして行く、と言う事の働きなんです。だからその働きをね、受けきらなかったらどんなに縁が濃いかっても、それは親子であっても同じ事です。おかげになりません。しかもそのおかげの短所というかね、糸口というものはです、願う氏子におかげを授けと言われる、そのおかげを頂いて助かる。
 そこから次に理解申して聞かせと、おっしゃるご理解を頂かなければならないけれどもです、そのご理解が中々耳に入らんけれどももう是で、もう世の中おしまいだ、人間破滅だと云う様な時になっておる時にはです、ね。( ? )一縷の願いとか望というものが、例えばあなた方、私の言う事を聞きなさい、助かりますよ、と言うたら皆んなの人がそれこそどれだけおるか人間が分からない。
 丁度そのだからこの箱に乗っておる人達だけは、私の話を聞く人達だけは生き残る人々として、おかげが頂けるんだと云う事を皆さんが聞いてです、私の話を聞いて下さる。それは例えば言うならば、人間が自分で自分の首をくくる様な生き方、というのは自分の物でもないものを、自分の物の様に思うたり、日柄方位というてと云う事は見当違いの考え方。昨日も私はある親子のお届けをさして貰ったんですけども、娘はお母さんが悪いといい、お母さんは娘が悪いという、これなんかも本当の見当違いです。
 親子ですから憎かろう筈がありませんです。それでそれをお母さんの親心だと受けたり、お母さんが言よんなさる事が即、神様が言いよんなさる事だと云う様な、頂き方をすると云う事が、本当の頂き方なんです。それを家のお母さんは根性が悪いとか、腹が悪いとか、と云う様な頂き方は、愈々見当違いの頂き方なんです。そういう頂き方がです、いわゆる自分で自分の首をしめて行く様な。結果にしかならないですから信心とは、結局本当の本当を教えて行く事、又それを本当の本当を願い求めて。
 進んでいくのが信心なんだ。ここで私は日柄方位ばかりを見てと云う事を、見当違いの考え方というたけど、日常生活の中にもです、もう神様が氏子助けねばおかんという働きでもです、幸せにせにゃおかんという働きでもです、こちらは見当違いの頂き方をしたら、そこから破滅になっていく不幸になっていくね。ですから本当な事を分からせて頂いて、本当な事を本当な事と頂いて。
 お母さんが私が可愛いからこそ、あんなに怒って下さるんだと云う様な頂き方をする所に、そこから道が付いて来る。おかげが頂けてくると云う事になる。見当違いと云う事は、もうお互い信心があっても見当違いばっかりの、事になっておると言う事は、あまりにも問題が多過ぎる。ひとっつも問題にならん事を問題にしてしまっている。それは見当違いの考え方ですから、問題が問題をまた生んで行く様な結果になるのです。
 例えば私共の場合、それは問題、けれどもそれを、御神意が分かったらそれは問題じゃない、おかげなんだ。だからもうすでにそこで、問題というものは無くなる、程しのね、頂き方をして行くと云う事が、広がりに広がっていく生き方。だからこの生き方で是からは、行こうと皆さんが。決心しなさっただけで、私の言う事をもう聞いて下さるだけです。それは成程地球は破滅するかもしれない。
 人類が全部しまえるかも知れない、けれどもおかげで魂が助かる、お互いが魂の世界に行って助かる事がでける。けれども私は生き残る人々として私の話を聞いて、私の話の合点が行く人だけは、私の話を聞けば助かるよと言っておる事に、皆が水を打った様にそれを聞き停めておると云う所にです。私は最近合楽で言われる、愈々合楽を表していく生き方自分の心の中に家庭の中に。
 合楽を表していくという生き方を身に付けて行くと云う事がです、どう云う様な例えばなら世界の難儀と言われる、難儀にと云う様な事になっても、その難儀から開放されるおかげの世界に住む。合楽世界に住む事が出来ると云う風に思います。今日は御理解三節を、これ程しのご理解は、いわばなかろうと言われる様な御理解ですけれども。ただですね、天地金乃神と申す事は。
 と云う事を天地乃神様をいかに分かった所でです、分かっただけではいわゆる親に掛り子に掛りとか、氏子あっての神、神あっての氏子と言う様な事にはならない。この真ん中にある所の、見当違いの思い方見当違いの考え方を改めていってこそ、始めて天地の親神様が分かるのであって、同時にそこから合楽を表す、いうならあいよかけよの道というのは、そこから開けて来るものだと云う事です。